『こころみ整骨院』を開院するまでのストーリー(~私が整体師になった理由~)
1、整体師になった最初の動機
私はもともと“人と同じことはやりたくない!”という性格だったみたいです。学生時代にバンドをやっていたこともあり、
「毎日毎日、満員電車に揺られながら同じ日々を過ごしたくない!俺はバンドでプロになるんだ!!」
なんて、いま思うと典型的な「若気の至りスタイル」でした(笑)
そのような理由から大学3年生から始まる就職活動はわずか2か月で終了。プロになるんだ!!と強く思っていたバンドも、結局は才能がないことに気づき、早々と断念してしまったのです。
そんな私の脳裏に浮かんだのが、
「何か手に“職”をつけて人の役に立てる仕事をしよう!」
というものでした。当時の私にしては良く思いついたものですね (^^;)
その後、資格の情報雑誌を読みあさっていると、『整体師』の資格が目にとまったのです。
「人に喜ばれて感謝される資格なんて最高じゃん!!」
などと、まだ若かったのでそんな単純な考えでした(笑)
そして、これと決めたらさっそく行動。学費はなんとか両親に工面してもらい、整体のスクールに通うことになったのです。
この世界に初めて入ったのは、そんな感じでした。
2、「整体師」の養成スクールを卒業後 ~私の“治療家”としての原点~
「整体師」の養成スクールを卒業後、自分の腕を磨くためにどこで働こうかと考えていました。
いろいろと働く場所を探していたところ、運よく従妹が受付のアルバイトをしている接骨院を紹介してくれたのです。そして、私はその接骨院で働かせてもらうことになりました。
いよいよ私の現場デビューですが、人のカラダを施術する・・。左も右もわからない私にとっては緊張で心臓が“バクバク”しっぱなし(汗)
でも、そんな毎日が新鮮で驚きの連続。何も知らない・わからない私に院長先生は親身になって「人のカラダを診る」ことのノウハウを教えてもらったのです。
ここでの経験は、まさに私がこの先“治療家”として生きていくための原点になっています !(^^)!
3、国家資格・『柔道整復師』の免許取得を目指す!
人のカラダを施術し始めて半年ほど経ったとき、院長先生が私にこう言いました。
「『柔道整復師』の免許を取らないの?将来は国家資格があると有利だよ。」
確かに、私は国家資格は持っていた方がいいなとは考えていました。しかし、この資格を取得するまでに「3年間」という時間、そして当時の金額で500万円以上の学費がかかることを知っていたのです・・。
両親には「大学・整体スクール」の学費をだしてもらっている・・。さらに専門学校の学費だなんて・・・。
これ以上はさすがに、親に頼むことはできない・・。でも、なんとかお金を工面できないか断腸の思いで両親に頼み込んだところ、「将来のためになるなら」とすべての学費を出してもらえることになったのです!!
本当に、両親には泣くほどの感謝でいっぱいでした (;_;)
その後、『柔道整復師』免許取得のために通うべき専門学校が決まりました。と同時に、働きながら一人暮らしをする“勤労学生”として心身ともに成長しようと決意したのです。
4、母親が他界・・。人を癒す“あたたかい手”
話は少しさかのぼりますが、専門学校に入学する一年ぐらい前から母親は大きな病気を患っていました。手術をして一時的に回復したように思われましたが、やはり容体は少しずつ悪くなっていったのです・・。
病と戦っている母親に私ができることは、学んだ整体で背中をさすってあげることだけ。そんなことでも母親は、「ありがとう」と言ってくれました。
今だから思えることですが、“こんなことしかできない”ではなく、こんなちょっとしたことでも「人から喜ばれる」ということに気づかされますね・・。
そして、私が専門学校に入学してわずか二か月ぐらいで母親は他界。亡くなる前に母親は入院している病院のベッドで私を抱き寄せて頭をなでてくれれました (;_;)
思い出しても母親の手はあたたかい・・。「私もこんな“あたたかい手”になりたいな」とココロのどこかで感じていたのかもしれませんね・・。
私が一人暮らしをすると言ったら反対されたけど、いざ始めたら母親として見守ってくれる。心配して電話もしてきてくれる。それでもって、無理無理頼んだのに学費も出してくれたお母さん。
もし私が死んだら、あの世で感謝の言葉をいっぱい伝えようと思っています。
5、『柔道整復師』免許を取得。その後、院長職として声がかかる
3年間の「勤労学生」生活を経て、無事に『柔道整復師』免許を取得することができました。
夕方まで働き、そこから夜学の専門学校に通い、さらに一人暮らしも始めたので想像したよりハードな毎日。つらいこともあったけど、それ以上に楽しいこともあり“充実した時間”だったと感じています !(^^)!
免許取得後は継続してお世話になっていた接骨院に勤めていたのですが、ちょうど取得して一年ぐらい経ったぐらいに院長先生から、
「うちの患者さんで『接骨院』をやってみたい(経営してみたい)って人がいるんだけど、院長としてやってみない?」
という話を持ち出されたのです。
私はまだ免許を取得してから日も浅いのですごく迷いました・・。でも“自分の成長のために”と思い、「院長職」として一から接骨院の立ち上げに携ることを決意したのです!
6、院長職として新たなスタート!だったはずが・・
“雇われ”という形ですが院長として一から接骨院の立ち上げに参加し、意気揚々と新たな日々が始まりました。ところが・・
数ヶ月経ってもなかなか来院数が伸びず、次第に気持ちがあせる日々が続くようになったのです。次第に経営者からの圧力も強まっていき、さらに共に働いているスタッフともうまくいかない日々が目立つようになってきました。
私が院長なので立場上は一番上なのですが、下で働いているスタッフは皆私より年上。経験も浅く未熟ということもあり、物事をうまく伝えることが出来ずに“衝突”が多くなったのです。
私は経営者と年上のスタッフという、“「上と下」からの重圧”に耐え切れずにココロが荒んで(すさんで)いきました・・。そして、いつからか
“死にたい・・”
と思うようになり、“自殺の名所”と呼ばれる場所をネットで探すぐらいココロが病んでいたのです・・。
これは、完全な「うつ病」状態。毎日がつまらなくて、何に対しても興味が持てなくなる毎日・・。この時が、“人生でいちばんつらい時期”でした・・・。
7、どん底からの転機!
そんな人生の“どん底状態”の私でしたが、ついに転機が訪れました。そう、当時お付き合いしていた女性が私を救ってくれたのです!
彼女は私が書いた「遺書」(それぐらい思いつめていた)をたまたま発見してしまったのです・・。それを見た彼女は、
「なんでも助けになるから、協力するから言って!!」
と私に言葉をかけてくれました・・。そして、この言葉をかけてくれたときに起きた私の“ココロとカラダの変化”を忘れることはないでしょう・・。
そう、ココロとカラダに重たい石が乗っかり苦しんでいたのに、その石が消えてしまうような感覚・・。
この【安心感】は、「はんぱねェ~!!」という言葉で表すぐらいすごいものだったのです!
この言葉を機に、私は院長として立ち上げに携った接骨院を辞職することを決意。その後、経営者の方との“いざこざ”はありましたが、彼女の協力もあり無事に辞職することができました。
と、同時に「うつ病」からも少しずつ回復していったのです。
8、「うつ病」を経て、さらに学びを深める決心をする
「うつ病」から回復した、私は「同じような思いで苦しんでいる方々のために何かできないかな?」と考えました。そして、インターネットで色々と調べていると・・
『うつ・自律神経失調症専門の治療院』として看板を掲げている整体院を見つけたのです。
始めは、「整体でうつ病を治す~??」
なんて半信半疑でしたが、やはり「うつ病」で苦しんでいた私にとっては気になる存在。意を決してその整体院の勉強会に参加することを決めました。
もちろん最初は半信半疑でしたが、勉強会に通っていくうちにとっても興味があることがいっぱい!いつの間にかのめり込んでいったのです。
そして、基礎から学び上級クラスまでの勉強会にすべて参加。「うつ病」や「自律神経失調症」に関する様々な知識や整体技術を習得することができました (^^)v
9、“二度目”のうつ病になる・・
「うつ病」や「自律神経失調症」の知識や整体技術を習得した私は、数年後にこの学びを活かして『うつ病・自律神経失調症専門』の整骨院を開業しました。
しかし・・、
私が、うつ病で苦しんでいるときに救ってもらった彼女と様々な理由から離婚(彼女とは結婚した)。独立開業したばかりで気持ちも不安定な私は、また昔のような精気のない気持ちが襲ってきたのです・・。
この時は知識もあり、初めて経験したうつ病のように「死にたい・・」というひどい状態まではいきませんでした。でも、なかなか希望が見いだせない・・。
このままでは以前に院長職として携っていた接骨院の時のように経営がうまくいかないと判断し、わずか“数ヶ月で整骨院を閉院”する決断をしたのです・・。
最初のうつ病のようなひどい状態まではいかなくても、やはり“とんでもなくつらい思い”であったのは変わりはありませんでした・・・。
10、“治療家”という立場の「現場」を離れる
整骨院を閉院した私には何もなかった。お金もないし頼れる人もいない・・。前のようにどん底とは言えないけど、やっぱりそれと同じくらいつらかったですね・・・。
でも、やはり生きていくためには働かなくてはいけません。でも、カラダとココロはつらいのに“働かなくちゃ”という気持ちは不思議とあったのです。
そこで、私が選んだ働き先は「デイサービス」と言われる介護施設でした。
デイサービスは家で生活を続けているご老人の方が、通いで利用する介護サービスの一つ。私は、そこで利用している方のカラダの能力をサポートしたり指導したりする仕事に従事することとなったのです。
でも、初めて経験する慣れない仕事。そしてまだまだココロも安定せず落ち込んで荒んでいる状態・・。
すぐに「こんなところ辞めたい!!」というう気持ちが襲ってきました。でも、
「ここで辞めたら何も変わらない!何も進まない!!」
そんな気持ちが湧きあがり、なんとか踏ん張って自分の“ココロ”に鞭を打って働き続けたのです。
11、二度目の「うつ病」からの回復 ~きっかけをくれたのは、またも“女性”の存在!~
デイサービスに勤め始めて数ヶ月、私は「うつ病・自律神経失調症」の勉強会で知り合った“女性”のことを思い出しました。
その女性は同業者とまではいきませんが、同じような仕事をしていました。そして、「いつでも私のところに相談(というより話)をしに来てね。」と言ってくれたのです。
でも、その先生のいるところは遠い・・。新幹線にも乗らなくてはいけない・・・。
当時の私は職場以外で外に出ることは“恐怖そのもの”でした・・。でも、「何かが変わるかも!!」と思い、もてる力をふり絞り頑張って足を運ぶことを決意したのです!
そして、“恐怖”という気持ちを持ちながらもその女性の先生とお会いすることができ、パワースポットに連れていってもらったり、たくさんお話をして相談もできました。
そのなかで、いちばん私が“ココロに響いた”言葉が、
「八方塞がりでも“上”はあいているよ」
まさに、私を救ってくれた言葉でした。すごく共感できたし安心できた。
そして、その日から少しずつ気持ちにも変化が出始めてきたのです!そう、このとき気づきました。
“信頼できる人に話すことは【安心感】を得られる”
ということを。ココロから感謝です (*^^*)
12、介護施設という場所で、“自分に何が足りなかったか?”を気づく!
遠くまで外出するということは相当しんどい思いでした。でもその女性の先生のおかげで「気持ちの変化」と「自分がうつ病から離れている」という実感が少しずつ持てるようになってきたのです。
そして、気持ちの余裕がでてくると“今まで気づけなかったことにも気づけるようになる”んですね。
デイサービスという介護の現場でおじいちゃん・おばあちゃんと話をしていると、自分のココロがとっても“あたたかく”なるんです。そして、私はある日気づきました!
私に足りなかったのは、「人を思いやるココロ」だということを。今までは整体の知識や技術にとらわれて、まったく“その人自身”をみていなかったということを。
もちろん知識や技術は大切ですが、それが一番ではありません。それだけでは人は治せないのです。
本当に本当に“一番重要”なことに気づくことができました。私をうつ病から救ってくれたのは知識でも技術でもなく、“その人を思う気持ち”であるということを。
私はその日からデイサービスに通っているおじいちゃん・おばあちゃんに「ココロで接してみよう!」と思い、行動を変えてみました。
おかげで毎日が楽しくなり、結婚していただける女性にも出会うことができたのです !(^^)!
“意識を変えて行動すれば、必ず何かが変わる”
これまで起きた過去のことは決して無駄ではない。これまでずっとずっと大切なものに気づけてなかったんですね・・。
でも、“ココロが優しくて思いやり”のあるおじいちゃん・おばあんちゃんのおかげで、これまで一番長く勤めた職場になりましたよ (*^^)v
2022年9月に『こころみ整骨院』を開院
紆余曲折をして、私は独立開業を決意しました。過去の出来事もあり決意にいたるまで時間がかかりましたが、周りの方の多大な協力と後押しがありなんとか開院することができ、とても感謝しています。
そして何よりも“行動を起こさなければ何も変わらない”、ということを身を持って感じているからですね !意を決しての一大決心です。
『こころみ整骨院』は、“明るくイキイキ健康でいられる日々を送る”ことをコンセプトとして開院しました。
これまで、私の人生の転機にはたくさんの方々に助けられてきました。ですので、今度は私が逆の立場になって皆様が楽しく生きられるようなサポーターになりたいと願っています。
これからは、この想いを胸に、『こころみ整骨院』院長・高橋として日々研鑽してまいります。
ここまで“私が『こころみ整骨院』を開院するまでのストーリー”をお伝えしてきましたが、いかがだったでしょうか?
「何だか長くて飽きちゃったよ~」
と思って、読むのを途中でやめてしまった方も、最後まで読んでくれた方もすべてに感謝です。ありがとうございました (*^^*)
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